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中居正広氏を芸能活動引退に向かわせた社会は“健全”なのか?

 昨年末から女性とのトラブルが報じられてきたタレント・中居正広さん。示談が成立しているにもかかわらず、スポンサーが次々にCMを差し止め、出演番組も軒並み終了。最終的に当の中居さんは1月23日に芸能活動引退を発表した。

 これを「社会がやりすぎ」「疑わしきは罰せずではないのか」と批判する声も多いが、果たしてそう言えるのだろうか?

 私はむしろ、企業やスポンサーが“理性的に判断”をした結果であり、現代の社会構造としては健全な働きだと考える。

「疑わしきは罰せず」は刑事法の原則にすぎない

 しばしば言われるのが「疑わしいだけで仕事を奪うなんて酷い」「推定無罪を無視するのか」という意見だ。しかし“疑わしきは罰せず”は、刑事裁判における人権を最大限に守るための鉄則であって、企業がタレントを起用するかどうかはまったく別の話だ。

 企業は株主や従業員を守る責任を負い、社会的イメージを維持する義務がある。もし“トラブル”のリスクが高い人物だと少しでも感じれば、その人をコマーシャルや番組に使わないのは当然と言えるだろう。

 例えてみれば、前方の道路に大きな穴があるかもしれない——という時、慎重な運転手は迂回するか手前で停車するはずだ。

 後から「案外穴はなかった」と判明しても、“安全策を取った”結果に対して責められる筋合いは少ない。

 テレビ業界の場合も同様で、あえてリスクのあるタレントを起用し続けるメリットは小さく、デメリットだけが非常に大きい。

コンプライアンス意識が高まった社会の“自然な働き”

 テレビ局を含む企業の収益は、スポンサーからの広告費が大部分を占めている。これまで不祥事の“揉み消し”が横行していた時代もあったが、ここ数年はSNSや報道機関の厳しい監視、そしてスポンサー企業のコンプライアンス意識が急速に強まっている。

 その結果、「示談済みだから問題なし」というロジックが通らなくなり、少しでも曖昧な疑惑が生じたタレントは番組降板へ追い込まれることが増えた。これを「社会による私刑だ」と見るか、「企業が適切にリスク回避している」と見るかは人それぞれだが、私は後者の要素が大きいと思う。

 実際、スポンサーが付かなければ番組は作れないし、ネット炎上のリスクも考慮すれば、どうしても“危ない橋は渡れない”という判断が働くのは自然ではないだろうか。


テレビだけが活動の場ではない

 もうひとつ重要なのは、現代の芸能活動は必ずしもテレビに限られないという点だ。動画配信プラットフォームやSNSのライブ配信など、自らファンを集めて直接収益を得られるシステムが確立している。例えスポンサーやテレビ局に敬遠されても、やり方次第で個人発信の活動を続けることは十分可能なのだ。

 それにもかかわらず「テレビで使われなくなったから芸能界引退」となったのは、あくまで当人の選択だと言える。ファンが信じ続けるならクラウドファンディングやオンラインサロンなども活用できたはずで、実際にそうして復帰する芸能人も少なくない。

結論:中居さん引退を許容する社会はむしろ健全

 中居さん本人が芸能活動をやめると決断したのは惜しまれるかもしれない。けれど、それは「社会やメディアが追い込みすぎた不健全な結果」というより、企業やスポンサーが健全性に厳格になった結果だと言える。

 そもそも企業は“疑わしきは起用せず”という方針を持つ権利がある。テレビというビジネスモデル自体がスポンサー収益に左右される以上、そこを貫くのは当然だ。そして当事者本人には、テレビ以外に活路を見出す道が確かにあった。

 たとえ大物タレントだろうが、曖昧な示談内容で疑惑を濁したままテレビに出続けることは簡単に許されないという空気は、業界の体質を変えていくという上でも健全だと言えよう。

 刑事罰とは別のところで倫理観や社会的評価が下される時代なのだと、社会全体が強く認知すべき事例だと捉える方が合理的であろう。

 繰り返すが“疑わしきは罰せず”が守られるのは刑事裁判のみだ。従って企業やテレビ局がイメージを重んじて取引を止めるのは、ある意味、自然の摂理なのだ。

 もしこれを“過剰だ”と感じるなら、その理由を詳細に説明し、スポンサーを納得させるか、それが難しいなら、直接ファンとの交流で収益を得る選択肢もある。

 それにも関わらず中居氏は何も語らず退いてしまったわけで、それは「社会が引退に追い込んだ」と言うよりも、本人の選択と、コンプライアンスが働いた社会の健全な動きの結末だと考えるべきだろう。