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30年前の“強引キス”コントへの批判に反論するほんこん氏
お笑い芸人のほんこん氏が、約30年前に放送されたテレビ番組のコントで、女優・篠原涼子氏に“強引にキスを迫るシーン”についてSNS上で批判が噴出している件に関し、YouTubeチャンネルで「台本があっての演出」「嫌なら観るな」と反論しました。これに対し、過去の芸能界慣行や当時のテレビ業界の“無茶な演出”が、現代の視点から見ると不快に思われる可能性が高いことを指摘する意見が強まっています。
ほんこん氏の主張
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「台本があった」
あくまでコントとして演出されており、篠原氏も承知のうえだったと説明。 -
「嫌なら観るな」
視聴者側の自由を強調し、被害届が出ているわけでもないと主張。 -
「批判がエンタメをダメにした」
「そうしたクレーム体質が、現在のバラエティを面白くなくしているのでは」と疑問を呈した。
コメント欄での声
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「昔のバラエティはお色気やセクハラっぽい演出も“当たり前”だった」
当時は番組ごとにターゲット年齢があり、深夜帯などでは無茶な演出も受け入れられた。しかし、今の価値観ではアウトだとする意見が多い。 -
「当時も嫌だった人はいたが言いにくかった」
今と違い、SNSで声を上げられない時代だったため、実際は我慢して観ていた視聴者が少なくなかったのではという指摘。 -
「作品の古さを理解した上で楽しめばいい」
時代劇や過去のお笑いを現代基準で糾弾するのは過剰、という声も存在。あえて“アウト”表現を楽しむかは個人の自由だと主張する。 -
「出演者自身が“嫌”と言えない空気があったのでは?」
篠原涼子氏が本当は嫌でも仕事だから仕方なく受け入れたかもしれないと疑問を呈する意見。 -
「ほんこん氏は開き直りすぎ」
“嫌なら観るな”ではなく、現代から見れば不快な表現だったと認め、一言「申し訳ない」と謝れば印象が違うのでは、と求める声がある。
論評
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過去の表現を今の基準で再評価する意義
過去のバラエティやドラマには、現代のコンプライアンス意識からすると問題視される演出が少なくありません。たとえ当時は“許容”されていたとしても、現在の視点で批判されるのは自然な流れです。昔ならではの自由さは面白さにもつながった反面、“セクハラ”的演出を笑いに変える手法に不快感を覚える人も存在していました。 -
“嫌なら観るな”は公共性を軽視する発言
テレビは多くの人が視聴する公共メディアであり、特に30年前はチャンネル数も限られ、番組を“選択”する自由が今ほど広くありませんでした。「家族団らんの時間帯に、好まぬシーンが流れる」ことは当時ならではの状況です。しかも、当時は声を上げにくい雰囲気が強かったため、今さら批判するなというのは少々筋が違うといえます。 -
謝罪より“居直り”を選ぶリスク
ほんこん氏の態度は「台本通りだし、文句があるなら観るな」と開き直る印象を与えます。しかし、SNS時代に過去の作品が掘り起こされるケースが増えたいま、“当時はそうだった”だけでは通用しない場合も多い。もし「当時は面白いと思っていたが、今見ると不快だと感じる人もいると理解した。ご不快に思われた方には申し訳ない」とひと言添えていれば、視聴者の受け止め方も変わったでしょう。 -
エンタメが“おもしろくなくなった”本当の理由?
「批判がエンタメをつまらなくした」と断じる意見もありますが、多様性を尊重する時代背景の中で、コンテンツが変化するのは当然とも言えます。新しい時代には新しい笑いが求められ、古い手法が通用しないのはエンタメ全体の進化でもあるでしょう。行き過ぎたクレーム文化は確かに問題ですが、一方、当時の“無茶な演出”を免罪符にするのも違うという声が大きいのです。 -
まとめ:視聴者の再評価を無視できない時代
30年前の番組や芸人の行為が現在になって再注目されるのは、SNSが過去映像を簡単に拡散できるようになったから。こうした再評価の動きに対し、単純に「昔は面白かった」と言うだけでは済まず、当時不快に感じた人や現代の価値観で見たときの批判にも耳を傾ける必要があります。エンタメは常にアップデートされるべきものであり、批判を一切排除するのではなく、どう改善や対応を図っていくかが問われているのではないでしょうか。
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