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「犯罪被害者像」を再考せよ:池袋暴走事故遺族・松永拓也さんが語る固定観念の影と光

要約

2019年4月に発生した池袋暴走事故。この事故で妻と幼い娘を失った松永拓也さんは、悲劇的な出来事を経て「関東交通犯罪遺族の会(あいの会)」の副代表理事として活動を続けています。事故直後から再犯防止のための講演活動や情報発信を行い、社会的な交通意識の向上を目指していますが、その一方で、顔の見えない誹謗中傷や殺害予告といった精神的な負担も経験しています。

松永さんは犯罪被害者としての活動を通じて、自らの感情や葛藤を率直に公表し、多くの共感を得てきましたが、それが「犯罪被害者は悲しみに暮れ続けるべき」という固定観念を強化してしまったのではないかというジレンマを抱いています。SNSでは、松永さんが私生活での楽しさや笑顔を共有すると、「被害者なのに笑えるのか」といった批判的なコメントや、善意からの「笑える日が来て良かった」というコメントを受けることがあります。そのどちらも、犯罪被害者に対する無意識の固定観念が背景にあるのではないかと松永さんは考えています。

 


また、再婚の可能性に関しても「再婚して幸せになってほしい」という意見と、「妻以外を愛するべきではない」という対立する意見が寄せられる中、松永さんは「自分の人生を自分で決める」というスタンスを取っています。これらの意見は、犯罪被害者がどうあるべきかを他者が決めつけている一面を感じさせます。

さらに、2024年9月には14歳の女子中学生から殺害予告を受ける事態が発生。松永さんは被害届を提出し、取り下げることを選ばず、加害者が少年法の下で更生する機会を得られるようにしました。この選択の背景には、「加害者を赦すことではなく、社会全体をより良い方向に変えることが重要」という信念があります。

記事全体を通して、松永さんは犯罪被害者の多様な生き方を認め、固定観念やステレオタイプを社会が少しずつ捨てていく必要性を訴えています。自身の活動を通じて、個々の犯罪被害者が持つ異なる感情や人生観を尊重し、社会全体で寄り添える環境を目指しているのです。


論評

この記事を通じて浮き彫りになるのは、犯罪被害者に対する社会の固定観念や、それによる無意識のプレッシャーです。松永さんが感じた「犯罪被害者は一生悲しみに沈み続けるべきだ」という見方は、善意や同情から発せられる言葉の中にも潜んでいます。このような固定観念が、犯罪被害者にとって新たな苦しみを生み出す一因となっている点は、私たち全員が考えるべき重要な問題です。

松永さんの活動は、単なる「被害者」としての枠を超え、加害者の更生や社会全体の意識改善にまで視野を広げています。14歳の女子中学生から殺害予告を受けた際、彼女の将来を考慮し、少年法の手続きを進めることを選択した姿勢は、感情的な報復ではなく、冷静な判断と社会的な責任感の表れです。これは、犯罪や加害者を感情的に断罪するのではなく、再発防止と更生を社会全体で支える重要性を示しています。


また、松永さんが語る「笑える日が来る」という言葉は、事件の悲しみが癒えたわけではなく、人間として生きる上で避けられない一面を表しています。犯罪被害者である前に一人の人間であり、多様な感情を抱きながら日々を過ごしているということを、私たちは忘れてはなりません。

松永さんの姿勢は、犯罪被害者が社会の中で固定的な役割を押し付けられることなく、多様な生き方を選べる未来を目指す模範となっています。彼が訴える「色眼鏡を外す」というメッセージは、被害者や加害者に対するステレオタイプに対して、全ての人が考え直す必要性を投げかけています。私たちがこのメッセージを真摯に受け止めることが、今後の社会をより良い方向へ導く第一歩になるのではないでしょうか。


個人的な感想

もちろんのことですが、人はいつまでも悲しみに沈んでいられるものではありません。
また、当然でありますが、その事を責められる謂れもありません。
松永さんが失ったものはあまりに大きく、取り返しがつかないものですが、それでも生きている限りは、幸せになる権利もあるし、自分の人生を自分として生きる事には意義もあります。
思いがけず有名人となってしまった事で、いろんな圧が加わる立場になってしままわれましたが、潰されずに堂々と歩む姿には敬意を覚えます。
しかしながら人は、どういう運命があろうが、淡々と生きるのみなのもまた事実として受け入れざるを得ないのです。